「読み応え」に対する考察

日頃から散文を投稿するのは己の整理が目的だ。

その時に感じたことを更正することも無くただ垂れ流している。その証拠に公正という読みは分かっていても漢字が分からないものを調べる気もなく「間違えてるだろうな」という考えの元、こんな言い訳までして事実として垂れ流している。

 

そんな文に読み応えなどがあるわけが無い。ここに書かれるのは妄想と相違無くそれに感性を刺激されるようならあなたの創作感はひねくれています。

 

では「読み応え」とはなんなのか。

今回の結論は「愛」だと考える。

今日文章を書きたくなった理由はとある自叙伝?エッセイ?のAmazonレビューを見たからだ。

 

私はその作品の筆者の事を全くと言っていいほど知らない。テレビ等では紹介されているらしいのだが、恥ずかしながら俺は自分の部屋にテレビを置いていないし契約すらしていない。

いわゆるインフルエンサーらしいのだが、ネットの中ですら引きこもりのような私にはリアルネット両面で無縁の人物だ。

 

その人が己の半生を書いた本を出したらしい。(その人が実在するかも確認はしてないので断言は控える)

俺にとって全くと言っていいほど興味が無く関わりもないのだがそのレビューの中にとんでもない長文が投稿されたらしいのだ。

 

大概こういうものはとんでもないアンチか信者かだ。長年無駄に祭や炎上を対岸から見ていたわけではない。

 

しかしそれだけではカゲロウで鍛えられた私のレビュー腹筋もレビューセンサーも反応はしない。どうやら今回のハイパークソ長レビューはひと味違うらしい。

 

どうせ眠れない休み明けの布団タイムだ。俺はAmazonを開く。そしてあらかじめコピーペーストしていた本のタイトルを検索にかける。

 

 

全くの余談だが、私は自分が知らないものや嫌悪しているものを口にしたり手に取るのが耐えられない人間だ。そうして長年ネットで時間を潰して人生の擦り合わせをしているとその悪癖はネットでの立ち振る舞いにも現れてきた。今から私にとっておぞましい行為をしようと思う。「ゴキブリ」「パパ」「ママ」「ピーマンの肉詰め」

恐ろしく不快な気持ちになった。どうしてもそういうものを文に使ったり検索をかけなくては行けない時にはコピーペーストを有難くつかわせていただいている。

 

 

そしてそのページのレビューから特段評価されてるものを開く。

その瞬間に俺のスマホが文字で埋め尽くされる。スクロールバーを確認するがその動きは亀を想起させる。

これは噂に違わぬとんでもないものだという不安と興奮が俺をレビューという文字の世界にダイブさせる。

 

文を読むのは慣れていない。慣れていれば「高卒」から「高卒!」ぐらい言いきれるような学校に入学できたと思う。

約45分の読書を終えた俺には、そのレビュアーの筆者に対する愛がとめどなく出ているように感じた。

 

おそらくアンチならもう少し簡潔に問題点を述べバッサリとかっこよく(見えるように)書ききっていただろう。

おそらく信者ならもっと作品の内容を隠して筆者の事をレビューしていただろう。

 

しかしこのレビューにはその両方が一切無く、忌憚なく言うなら問題点をダラダラと、念押しするように何回も、別の項目にわけてまで書いている。

 

まるで肉親の説教のように。

 

俺は親が嫌いだ。恨んでいるとまで言ってもいいかもしれない。そんな俺がその説教じみたレビューに愛と親をみたのだ。

 

そうしているうちに時間を感じさせることなく文章は終わっていた。

 

これが読み応えのある文というやつなのだろう。

 

そうして俺は「読み応え=愛」なのだろうと感じたのだ。

 

正直そのレビューは誤字?というより感情がどう出てるか分かりづらかったので読みにくい部分はあった。それでも集中して最後まで読み切れたのでやはりすごい文なのだろう。

 

 

 

 

ここで私の考察を終了とさせていただく。

私は年齢だけの大人だ。

愛というものについて考えさせる作品が大好きなのを自覚しているがそれは愛を知らないからだ。

愛を描く作品ではなく愛という抽象を定義付けてくれる作品が好きなのだ。

そしてそういう作品は愛を描く作品と比べて実態がヴェールに隠されているためパッケージや表紙からは分からない。

だからたまたま手に取ったタイトルがそういったものだと運命すら感じてしまう。

そして今回手に取ったものはAmazonレビューだった。

 

世界に作品はそれこそ無限にある。

SNS時代になった現代では比喩ではなく現実として無限が体感出来る。

その中で私が出会った今回の作品に感謝を送りたいと思う。