思考が漏れ出してるだけの文章

私が文章をアウトプットする時、それは思考と同時に行われている。

と言うと都合がいいのだが要するに思考が記憶に定着しないのだ。

 

誰しも自分の物語を妄想したことがあるだろう。

それを何かに書き出して見てほしい。基本はそんな事不可能だ。なぜならそれが出来るならそいつは物書きに今すぐなるべきだからだ。

 

私の書く文章が気持ち悪いのはそういう理由だと考察できる。

つまりどこかしら何かしらの精査をされていない脳内の怪文書が辛うじて指を通過して人が読める程度に翻訳されて今ここに書かれているのだ。

 

今ここまで書いた文章、この先書くであろう文章も何も考えてないその時の思いつきが並べられているだけである。

 

皆様は「小説家になろう」というサイトをご存知だろうか。もし知らなくてもオタク趣味に多少知識があれば何かしらで触れ合っているはずなので各自確認をして欲しい。

 

私はそんな所謂「なろう系」の作品をレビューするYouTubeチャンネルを好んでいる。なろう自体が素人投稿サイトであるのでその出来はまちまちというには下品すぎる作品が多く、それらを小馬鹿にするそれらのチャンネルは自ら進んでその道を行こうとしない私にとっては必要なものだ。

 

そしてそのような動画を見ていると湧き出る感情がある。

それは「この程度なら俺でも書けるんじゃないか」というものだ。

そしてそれは数日の成熟の後に実際に紙の上に落とされる。

 

初めのうちはいい。自分の脳にある文章が紙の上で踊るのが楽しいからだ。

だが段々とアウトプットされる情報が減っていき、その領域には「何故こんなことをしているのか」「何故こんなつまらないものを書いているのか」と言う思考がねじ込まれる。

 

こうなるとおしまいだ。それら数千文字の物語未満は消されるかメモ帳の奥深くへと追いやられていく。

 

私はこれを「突発性なろう症候群」と呼んでいる。

私にも過去3度程この発作が起きた。そしてその度に上記のような過程を経て今は何もしていない。

 

そしてこの発作が終わる度に「なろう作家はすごい。作品の出来は無視してまず書き上げられるのがすごい」と思う。

 

結論として私はなろう作家にある一定以上の敬意を持っている。どれだけつまらなかろうとどれだけ偏屈なおじさんから作品を叩かれようとそれでも新たな作品を生み出す彼らの根性は素晴らしいと思っている。

 

 

PS 私はなろう作品を1行たりとも読んだことがない。それは今もこれからも揺らぐことが無いと断言出来る。